北朝鮮の都市「恵山」を望む中国の小さな町「長白県」に日本人が1人で行ってみた(脱出編①)
「張記粥餅城」で朝食をスピーディにとりつつバスターミナルに向かう。少し急ぎすぎてバスターミナルで30分近くも待つ羽目になったが、そのぶん内装写真がたくさん撮れたのでよしとする。そして午前7時、3泊4日もの長期にわたり滞在した長白の町に別れを告げ、約4時間の長いバス旅が始まった。行先は「臨江」という鴨緑江沿いの小さな町。ということはこれから4時間ずっとべったり鴨緑江沿いを進むことになる。とっても楽しみである。
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と思いきや、バスターミナルを出て数分も走らないうちに道端に突然停車し、動かなくなってしまった。何事かと思い辺りを見回すと、「八道溝、十三道溝 営運客車停車点」と書かれた看板が目に入った。どうやらこれがバス停らしい。長白に来る時のバスでもあった途中乗車・途中下車用の停留所のようだ。そもそも長白が始発のバスのはずなのにバスターミナルに到着したバスには既に乗客が半分近く乗車していたし、本当に中国の長距離バスのシステムは分からない。
昨日の夜に光り輝いていた税務署にも別れを告げながらバスは進んでいく。写真を見てお気づきのことかと思うが、なんと今回も窓側の座席にありつくことに成功できた。これはきっと日頃の行いの賜物に違いない。
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そして今回の一番の目的だった対岸の町「恵山」にも別れを告げながらバスは進む。今回訪れることができなかった口岸を車窓からでも眺められればよかったのだが、残念ながら道路工事のため迂回運行となり遂に目の当たりにすることはできなかった。
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長白の町を出ると左右に山が迫り、道路は必然的に川沿いを進むことになる。一方、朝鮮側は鉄道が川沿いを走っている。途中、集落の中にあるバスターミナルに立ち寄ったりして一時的に川沿いから逸れることもあるが、基本的には臨江まで鉄道・川・道路が並走状態となる。だが残念なことに朝鮮側に鉄道車両を見ることは一度もなかった。せっかく鉄道があってもこれではどちらがより進歩しているのか分からない。
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そして対岸に初めての集落が見えてきた。とても興奮が高まる。
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だが車内のラジオが空気を読まないでとても悲しげな曲調の音楽を流している。つられて決して「発展した町」とはいえない密度の集落を眺めつつ、ここに住む人々はどんな暮らしをしているのだろうか、対岸の道路をゆく数多の自動車を眺め、また自国の鉄路をゆく乗れない列車を眺め何を想っているのだろうか、などと考え込んでしまい車窓を楽しむどころではなくなってしまった。
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ここまで間近に街並みを見ることができても、そのような状況では楽しむこともできない。流れゆく単調な山並みと密度の低い集落の連続に、シャッターを切ることもカメラを向けることもせず、ただ呆然と窓の外を眺めていた。
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1時間半ほどバスに揺られると、ようやく対岸にもそれなりに大きい規模の集落が見えてきた。金正淑(キムジョンスク)郡である。金正淑とは金日成の夫人、金正日の母にあたる人物だ。1981年8月に改称され現在の名前となったようだ。しかしながら彼女にとって何らかのゆかりがある土地でもなければ、1981年という年も朝鮮にとって特別意味を持つものでもなさそうで、何故このタイミングでこのような名前に改められたのかは調べても判然としなかった。
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しかし朝鮮には本当に禿山が多い。少しでも木が生えていると、「あ、木が生えているじゃないか」と目に留まってシャッターを切るほどだ。
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更に1時間半ほどで金亨稷(キムヒョンジク)郡の中心部が見えてきた。ここでは恵山ぶりに高い建物(といっても5〜6階建て程度だろう)を見ることができた。金亨稷というのは金日成の父の名のようである。何故こんな辺境の地に金日成にちなんだ地名が多いのだろうか。謎は深まる。ちなみに両江道には他にも金日成の叔父の名を冠した金亨権(キムヒョングォン)郡というのも少し内陸にはいったところにあるようだ。この地域は第二次世界大戦の末期に抗日パルチザン活動が活発だった地域で、金主席一家もパルチザン活動家であったことが関連しているのかも知れない。
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金亨稷郡の対岸は八道溝という集落で、ここにもバスターミナルが設けられている。ここで少々の開放休憩があったが、トイレを催すこともなければ発車時刻が聞き取れなかったこともあり車内で大人しくしていた。発車時刻が分かっていれば街歩きなりバスターミナルの中を見物したりもしたかったのだが…。
十数分後、続々と乗客たちや乗務員が戻ってきても一部戻らない乗客がいたようで、何度も乗務員が乗客数を数え直している。終いには発車時刻になってしまったようで、しきりにクラクションを鳴らして呼んでみるものの全く乗客が現れる気配もなく、結局5分ほど遅れての出発となった。
往路は中国バックパッカー紀行氏と同じ旅程だったが実は復路も同じで、氏の記述によればこの集落で武警の検問があったようだ。なので集落の外に抜けるまでは気が抜けない…。と思い背伸びして前方を注視していたら、ちょうど集落の端にどでかい検問所があった。往路の時とは違い4名体制で車内に乗り込み、全員の二代身分証を専用の機械で読み取っていく作業が始まる。面倒事になるのが嫌だったので自分の番になったら日本人であることを告げパスポートを手渡した。すると他の武警たちも集まって無線で本部に連絡を取り、パスポートは一時預かりとなった。周りの中国人の間では「日本人がパスポート一時預りになったってのに飄々としてるぞ」といったひそひそ話が繰り広げられていた(のかも知れない。聞き取れた日本人とパスポートという2つの単語と、話しぶりからの憶測に過ぎないが)。中国バックパッカー紀行氏はその後、建物内に同行を求められたそうだが、この時はそのようなこともなくパスポートは手元に返ってきた。外へ出る方向なので 厄介なことにはならないはず と頭では分かっていたものの、やはり自分のパスポートが手元に戻って来た時の安心感は言葉には表せないものがあった。…ということもあるので、私は臨江から長白へ入るルートはあまりおすすめできない。が、実際のところ通過できるのか否かはとても気になるので是非とも誰かに体験してレポートして頂きたいとも思う。
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全員分の身分証検査が終了すると バスは再び川沿いを快調に進んで行く。三枚目の写真は 車窓に見えた学校のような施設だ。校庭では多くの子供たちがボール遊びのようなものをしている様子がはっきりと見て取れた。 彼らもまたどのようなことを感じながら、どのような大人に成長して行くのだろうかなどと、また考え込んでしまった。
中国バックパッカー紀行氏の事前情報によると武警の検問は八道溝だけだったが、その先の六道溝にも検問所があった。完全に油断しきっていたが道路標識を目にして背筋が伸びた。ところがバスは検問所が近づいてもスピードを緩める気配はなく、相変わらず町中の幹線道路を爆走しつづけ、なんと慌てて止めようとする武警を尻目に通過してしまった。しかし追ってくるわけでもなく、一体どうなっているのやらさっぱり分からなかった。が、まぁ何ともなかったのでよしとしよう。
臨江から先は鉄道に乗る予定だったが、列車は1日に1本しかないため乗り遅れてしまうとバスでの移動を余儀なくされてしまう。しかしながらそのバスも例に漏れず時刻がネットではわからなかったため、なるべくならやはり列車で移動したかった。(もちろん本心は鉄オタだから、なのだが。) 田舎の駅なのでそんな心配をする必要もないのかもしれないが一般的に中国の鉄道に乗る際は 列車の 出発時刻の1時間前には駅に着いておいた方が良いと言われている。白河ではそんな必要もなかったのでおそらく臨江でも大丈夫だろうとは思っていたが、やはり列車の時間が近づくにつれて焦りの気持ちが募ってくる。 少し車窓を眺めてはスマホを取り出し、時刻と現在地の確認という無意味な作業を繰り返していた。
結局臨江のバスターミナルに着いたのは11時15分頃と、列車出発のおよそ40分前だった。 バスターミナルは駅から離れていたものの路線バスがあったが、時間的にはやはり厳しくタクシーに乗る以外に選択肢はなかった。バスから降りたらターミナルの写真を撮るのを忘れて一目散に通りに出てタクシーを捕まえた。(なので上の写真はバスターミナルではなく臨江市政府。)
(6615次)長白 7:00 ⇒ 臨江 11:15
これまた大慌てのため、駅舎の写真も撮らずに中に入る。なんと発車5分前まできっぷを発売しているようだ。それならそんなに慌てる必要もなかった、と安心して窓口の列に並ぶ。しかし1日1本の列車時刻を表示しているだけで、他の画面に切り替わることのない電光表示は何のために電光式にしているのだろうか。
そして購入したきっぷはこちら。念願の無空調列車だ。122キロ、3時間のきっぷが9.5元(約180円)と、無空調だけあって破格の安さだ。
(4350次)臨江 11:57 ⇒ 通化 15:21
(脱出編②へ続く)
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